ナッキンコーのチュチュミチュナ

先日のこと。

「『まいにちドイツ語』で『シャー、シャー』って言ってるんだけど、あれ何なの?」と、友人。

「ああ、Shade (残念) じゃないの?」

 

30年ほど前、俳優の二谷英明が著した本を読んだ。

その中の一節にこんな話があった...。

彼が放送局に勤めていた時代、日本人女性が彼女の恋人(外国人)のために、1曲リクエストしてきたという。

それが、ナッキンコーのチュチュミチュナだったという。

二谷は当惑しながらも、落ち着いて考えてみた。

英語の音が、日本人の耳にどのように響くか?

それで、彼が導いた答は "Nat King Cole の Kiss Me Tonight。

(これを書くにあたって調べてみたけれど、Nat King Cole の歌に Kiss Me Tonight という曲が見当たらない。

二谷の記憶違いか、僕のうろ覚えのせいか。)

 

20~30年前、英語教育の世界は、訳読式指導の分が悪かった。

そして、その隙間を埋めるように、イマージョン、インプット理論が登場してきた、と記憶している。

アルクに言わせれば「英語のシャワーを浴びよう」。

 

英語に接する絶対時間が少ない日本人は、まず、英語を溢れんばかり聞かなくてはいけない。

また、聞いているうちに、自然と話せるようになる。

そんな言葉が躍り、そして、僕も踊らされた。

 

「耳だけで英語は学べる」なんて、よく主張できたなと思う。

日本人は、英語に接する絶対時間が少ないだけでなく、アウトプットしてそれを修正してもらえる機会がほとんどない。

後者に目をやらずに、前者だけで押し切るセールス・トークの裏を見抜けずに、学習の途中で「梯子を外された」と思った中高年は結構いるのではないだろうか?

 

語彙にしても構文にしても、段階を追って、係る知識を整理整頓しなければ、アウトプットの礎にはならないのだろう。

知識のネットワークの構築、再構築を繰り返しながら「使える」ものとして評価されるようになると思う。

 

「ナッキンコー」の女性も、「シャー」の友人も、耳が、耳だけが頼りだった。

知識の整理がうまく行けば、または、誰かに修正してもらうことによって、誤りは訂正され、知識は強固なものになるのだろう。

 

「スピード・ラーニング」という教材があるけど。

あれって本当に効くのかなぁ。